
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て成せぬ者はあるべきかと候て」(幸若舞「敦盛」より)
深緑の木々に囲まれ、来訪者の前に立ちはだかる大手門跡から、山腹へ向かって真っ直ぐ伸びる大手道。
現代ではそう呼ばれるその石段は、両側を堅固な石塁で築かれ、全長約180m、道幅約6mにも及びます。
かつて幻の城と呼ばれた安土城の天主(天守)へと続くこの道は、城主・織田信長の圧倒的な権威と威厳を、今なお静かに伝えています。
「是非に及ばず」
1582年(天正10年)、明智光秀(1528-1582)に襲われ、織田信長(1534-1582)が炎に包まれた本能寺で自刃する本能寺の変が起こりました。
これにより、天下布武(てんかふぶ)を掲げ、武力によって天下を制し、自らが頂点に立つことを目指した織田信長の野望は、志半ばで潰えることとなります。
しかしながら、当時の「天下」とは、京都を中心とした五畿内(山城・大和・和泉・河内・摂津)を指し、五畿内を支配する者が天下人と呼ばれたとされています。
本来、織田信長が目指したものは、日本全土を統一することや、五畿内を支配する天下人となることだけではなく、将軍や天皇のもとで秩序ある平和な世を武力によって実現する天下静謐(てんかせいひつ)であったのではないかと考えられています。
天下統一、あるいは天下静謐。
その実現のため、織田信長は丹羽長秀(1535-1585)に命じ、標高199mの安土山に3年の歳月をかけて1576年(天正4年)に築城したのが、日本で初めて天主(天守)を備えた城とされる安土城でした。
安土城の天主は五層七階(地上六階・地下1階)で、最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっていました。
内部は黒漆塗りで、華麗な障壁画によって彩られていたとされています。
また、天皇を迎えるための行幸の間を備えた本丸御殿も築かれ、天下を治める拠点として、その威容を戦国の世に示しました。

「定 安土山下町中 一、当所中為楽市被仰付之上者、諸座・諸役・諸公事等悉免許事. 一、…略…」
13か条からなる通称「楽市令」が掲げられた安土城下には、武士約2000人、商人約7000人が暮らしていたと言われており、従来の慣習にとらわれない活発で自由な経済活動が行われていました。
1580年(天正8年)には、布教のため来日していたイエズス会宣教師オルガンティノ(Organtino, 1533-1609)が、織田信長に願い出て、城下に日本人の司祭や修道士を育成する学校であるセミナリヨ(ポルトガル語:seminário)を建設しました。
織田信長もここを訪れ、オルガン(パイプオルガン)の音色に耳を傾けたと伝えられています。
「七月十五日、安土御殿主ならびに惣見寺に挑灯余多つるせられ、御馬廻之人々新道江之中に舟を浮かべ手々に讀松とぼし申され、山下かがやき水に移り、言語道断、面白き有様。見物群衆に候なり。」(太田牛一「信長公記 巻十四」より)
1581年(天正9年)、イエズス会巡察使ヴァリニャーノ(Valignano, 1539-1606)の出立を控えた盂蘭盆(うらぼん:祖先の霊を供養する仏事)の夜、安土城の天主と城内の摠見寺(そうけんじ)にはさまざまな提灯が吊り下げられ、街路や琵琶湖に浮かぶ舟には松明の火が灯されました。
この様子は、家臣・太田牛一(1527-?)が著した信長公記(しんちょうこうき)や、イエズス会宣教師フロイス(Frois, 1532-1597)が著した日本史(ポルトガル語:Historia de Japam)にも記されています。
提灯や松明によって照らされた夜の安土城一帯と、琵琶湖の水面に映り込む幻想的な光景は、城下の人々を大いに驚かせたことでしょう。

織田信長の志を示した安土城の天主は、本能寺の変から13日後、謎の出火によって焼失しました。
その後、織田信長の後継者などを決める清洲会議を経て、1583年(天正11年)の柴田勝家(1522-1583)との賤ヶ岳の戦いで勝利した羽柴秀吉(豊臣秀吉, 1536-1598)が、天下の実権を握ることになります。
そして1585年(天正13年)、秀吉の姉の子である羽柴秀次(豊臣秀次, 1568-1595)が、安土山の隣にある標高283mの八幡山に八幡山城を築城したことで、安土城は廃城となりました。
1940年(昭和15年)、整備を目的とした天主・伝本丸跡の調査が行われるまで、安土城は長い年月にわたり瓦礫と草木に覆われ、静かに時を重ねていました。
厚く堆積した土を取り除くと、天主跡からは111基もの大きな礎石(そせき:建造物の土台として据える石)が、往時の姿のまま発見されました。
現在でも、発見当時とほぼ変わらない状態で、五層七階の天主を支えた礎石が並ぶ場所に立ち、かつて織田信長が築いた幻の城の姿に思いを馳せることができます。

「なかぬなら殺してしまへ時鳥」(松浦静山「甲子夜話」より)
残忍で冷酷な独裁者、あるいは魔王として現代まで広く伝えられる織田信長の印象は、江戸時代以降に形成されたものとも言われています。
その大きな要因となったのが、すべてを焼き尽くし老若男女3000人以上を殺害したとも伝えられる、1571年(元亀2年)の比叡山焼き討ちです。
また、1573年(元亀4年)に武田信玄(1521-1573)との書簡のやり取りにおいて、比叡山延暦寺の主である天台座主にちなみ「天台座主 信玄」と署名した武田信玄に対し、仏道を妨げる神とされる第六天魔王になぞらえ「第六天魔王 信長」と署名して返したという逸話も、後世により強烈な印象を与えることになりました。
1956年(昭和31年)以降、幾度か行われた比叡山焼き討ちに関する調査では、大規模な火災があったとされる一方で、広範囲に及ぶ焼土跡や大量の人骨などの物的証拠は確認されていません。
そのため、実際には一部地域への焼き討ちであり、後世の記録の中で織田信長の苛烈さを強調するため、内容が誇張された可能性も指摘されています。
「藤きちらう れんれんふそくのむね申のよし こん五たうたんくせ事候か いつかたをあひたつね候とも それさまほとのハ 又二たひかのはげねすミあひもとめかたきあひた」
今川義元(1519-1560)との合戦で多くの家臣を失い涙した織田信長。
また、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正妻である於祢(おね, ?-1624)に宛てた手紙から読み取れる細やかな気遣いや、配下の武将たちへ送った数々の叱咤激励の手紙。
さらに、武勇に優れた人物であることを「武将の鑑であり、まるで日の輝きが朝露を消すようだ」と記した太田牛一や、「よき理性と明晰な判断力を有し、迷信的な慣習を軽蔑した革命児」と評したフロイスなど、信憑性の高い史料を重視し、織田信長に対する従来の認識を改めようとする動きが進んでいます。
近年の歴史ドラマでは、内面の葛藤や感情を隠すことなく表現する、従来のイメージとは異なる織田信長の姿が描かれるようになりました。

「うらみつる風をしつめて はせを葉の露を心の 玉みかくらん」(織田信長)
果てしなく続くような石段を登り辿り着く安土城の天主跡には、礎石だけが静かに残されており、そこにそびえ立った五層七階の安土城天主の全容は、今なお明らかになっていません。
しかし、その姿を知る手がかりとなるものが残されています。
織田信長が画家・狩野永徳(1543-1590)に描かせ、巡察使ヴァリニャーノを通じてローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII, 1502-1585)へ献上された、安土城と城下を描いた安土山図屏風です。
その屏風は、今も世界のどこかに眠っていると言われ、滋賀県では情報提供を7か国語で世界に向けて呼びかけています。
浮生夢の如し。
炎の中に散った武将・織田信長と、その居城であった安土城は、戦国の世を映し出すとともに、今なお人々を惹きつける甘美な謎を秘めています。
いつの日か真の姿が明らかとなり、再びこの地を訪れることができたなら、一段一段と石段を登るにつれて、周囲の景色はしだいに400年以上前の時代へと姿を変えていくことでしょう。
そして、時を越えて天主が目の前に現れ、それを見上げた瞬間、未来から訪れた者を満足げに迎える、彼の姿がそこにあるような気がします。
写真・文 / ミゾグチ ジュン









