
「あしたに仰ぐ聖岳 夕べに望む兎岳 けだかく清い山々に 遠い未来の望みかけ 深く正しく学ぼうよ 木沢 木沢 木沢小学校」(岡本敏明 詞「木沢小学校校歌」より)
長野県の南端、標高3120mの赤石岳をはじめ聖岳や兎岳が連なる赤石山脈(南アルプス)の西麓と、伊那山地の東面に抱かれた山深い渓谷一帯の秘境『遠山郷(とおやまごう)』、そして、林業の隆盛とともに発展し、多くの卒業生を送り出した後、廃校となった『木沢小学校(きざわしょうがっこう)』。
長野県の諏訪湖を水源とし、伊那盆地を南へ流れて太平洋の遠州灘へ注ぐ天竜川。
その支流であり、山間の渓谷・遠山郷を流れる遠山川は、赤石山脈南部の山々を源流とする流路延長39.3kmの河川です。
その流域一帯は、かつて洪水や傾斜地崩壊などの自然災害が頻発する厳しい環境にありました。
また、市町村合併などを経る以前、遠山郷一帯が「遠山六か村」と呼ばれていた頃、この地域の大部分は山地や原野で占められていました。
人々は、わずかな平地や山間の傾斜地を利用した農業を営みながら、自然と向き合い暮らしてきました。

「信濃國 江儀遠山庄」(「吾妻鏡」より)
「遠山」の名は、鎌倉時代末期の1300年頃に成立した編年体の史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』に、「江儀遠山庄(えぎとおやまのしょう)」として記されていることが初出とされます。
1186年3月12日、年貢が未納となっている荘園などへ催促を命じる記述の中に、他の荘園名とともにその名が登場します。
当時の江儀遠山庄は、地頭・北条時政が支配していた荘園でした。
美濃の遠山と区別するため、信濃の遠山は赤石山脈南部に位置する標高2392mの池口岳の古称と考えられる「江儀岳」の名を冠したものとされています。
そして室町時代に入り、治安維持や武士統制を担う地方官である守護の力が増す一方、1467年の応仁の乱によって室町幕府の権威が低下すると、世は戦国の時代へと移り変わります。
江儀遠山庄において勢力を伸ばした氏族が江儀遠山氏であり、その初代は遠山景廣(かげひろ)とされていますが、それ以前の系譜や経歴については明らかになっていません。
しだいに江儀遠山庄での勢力を強めた遠山景廣は、遠山川北岸に築かれた長山城を居城としました。
長山城は遠山氏の祖先が1214年頃に築いたと考えられていますが、1553年頃、渓谷の中央に位置する和田盛平山へ居城を移し、新たに和田城を築城しました。
1553年、武田晴信(武田信玄)が伊那方面へ侵攻すると、遠山景廣は武田氏の軍門に下りました。
1569年には、姻戚関係にありながら今川氏に属していた遠州奥山氏を攻め、1575年の織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでは、信濃先方衆(しなのさきかたしゅう)として軍糧輸送を担いました。
「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」(北条夫人:武田勝頼継室)
武田勝頼は、長篠の戦いにおいて大敗北を喫したことで、その勢力は大きく衰退しました。
そして1582年2月、織田信長は木曽口と岩村口から伊那方面へ侵攻する甲州征伐(武田征伐)を開始します。
これに呼応するように、徳川家康は駿河方面から、北条氏政は相模・伊豆・上野方面から武田領へ進軍し、武田氏攻略へと動きました。
遠山景廣は、武田勝頼の異母弟である仁科盛信(にしなもりのぶ)が守る高遠城へ駆け付け、織田信忠率いる大軍を迎え撃つため籠城しますが、3月2日、織田軍による早朝からの猛攻撃を受け、高遠城は落城。
仁科盛信は自刃し、遠山景廣も一族8名、家臣140名余りとともに戦死しました。
高遠城の陥落によって、織田信忠率いる軍勢は伊那方面から甲斐へ進軍し、3月11日の天目山の戦いで武田勝頼は一族とともに自害し、これにより、甲斐武田氏は滅亡することとなりました。

「折立長老碑」(犬養毅敬題)
遠山景廣の跡を継いだ遠山景直は、織田信長が自刃した1582年6月2日の本能寺の変以後、南信濃一帯が徳川家康の支配下に入ったことで徳川氏に属することとなりました。
1585年、徳川軍が真田昌幸と戦った上田城の戦いでは、遠山景直は下伊那の諸侯とともに出陣します。
戦いは徳川軍の敗北に終わりましたが、その戦場での働きが認められ、1590年代後半頃には徳川家康に謁見し、遠山領三千石の所領安堵を得ました。
これにより、遠山氏は近世においても一定の勢力を保つこととなります。
その後、1614年10月の大坂冬の陣、1615年5月の大坂夏の陣にも徳川方として出陣し、戦国の世が終わりを迎えた1615年9月、遠山景直は和田城にて生涯を閉じました。
遠山景直の跡を継いだ遠山景重は、病弱で子がないまま1617年に病死したことで、跡目争いによる御家騒動が起こります。
幕府は介入して騒動の収拾を図りましたが鎮まらず、その影響は領民にまで及びました。
その結果、遠山氏は所領や家禄、屋敷を没収され、士分の身分も失う改易となり、武家としての遠山氏は事実上滅亡することとなりました。
そして没収された遠山の地は、幕府直轄の支配地である御料所(天領)となりました。
武家としての立場を失ったとはいえ、遠山氏の一族すべてがこの地を去ったわけではなく、改易後も帰農して名主となり、遠山の地に留まり続けました。

「遠山川の水は澄み 涼風わたり鮎おどる われらも元気はつらつと 小魚のようにとびはねて 強く雄々しくそだとうよ 木沢 木沢 木沢小学校」(「木沢小学校校歌」より)
1674年、生活のための薪炭材や肥飼料となる草を採ることを許された「百姓稼山(ひゃくしょうかせぎやま)」に遠山の山々が指定され、村人の入山が認められましたが、中腹以上の山々は御料所として管理され、立ち入りは禁止されていました。
1677年以降、遠山六か村一帯は、他の伊那地方と同様に幕府直轄の御林(おはやし)である榑木山(くれきやま)(御榑木山)に指定されました。
そして、山々一帯は榑木成村(くれきなりむら)として管理され、他国の者の立ち入りが禁じられました。
米の収穫が困難な山間地であったため、年貢米の代わりに納められたのが榑木でした。
杉・檜(ヒノキ)・椹(サワラ)などを、1mほどの長さに切り、8分に割って中央の芯を取り除いた材木を榑木と呼び、遠山川から天竜川へ1挺ずつ流す管流(くだながし)によって川下げされました。
当時、榑木1挺は年貢米6合に相当し、金1両では350挺、米では1両につき2石1斗(約315kg)として換算されていました。

「すべて御材木は所々國々よりたづねもとめいだすといへども、事しげければよその事實はもらしぬ。是は信州遠山のことのみを書しるすとなり。」(華誘居士 著「遠山奇談」より)
椹(サワラ)を榑木として利用し、年貢として納めていた遠山六か村の山々では、短期間に約30万挺の榑木が産出されました。
過度な伐採が続き、1692年頃までには椹が伐り尽くされた状態となり、このような山を「尽山(つきやま)」と呼びました。
その後、1776年以降は榑木による年貢に代わり、貨幣で納める金納(きんのう)へと移行しました。
1718年、大規模な地震が遠山一帯を襲いました。
山崩れによってせき止められていた遠山川が決壊し、50余名の死者を出す被害となります。
翌1719年には「亥年の満水」によって三分の一の田畑が流され、さらに1726年、1731年と度重なる水害や天候不順が重なり、享保の飢饉によって多数の餓死者を出しました。
過度な伐採による森林の荒廃が、洪水や傾斜地崩壊などの災害を招いた一因であったとも考えられています。
1788年、京都で発生した天明の大火(京都大火)によって焼失した東本願寺の再建に用いる材木を求め、遠山の25の山々から木材が伐り出されました。
その出来事をきっかけに、華誘居士(かゆうこじ)は1798年、山中で起きた不思議な出来事や珍しい鳥獣を記した紀行文『遠山奇談』を京都で刊行します。
これにより、遠山は人々の知らない山深い秘境の地として、その名が広く知られるようになりました。

「黒田忠一等から、信州下伊那郡和田村の和田村外五カ村共有の遠山山林を一〇万九、〇〇〇円で購入」(「王子製紙山林事業史」〔1976年〕より)
明治維新後の1872年(明治5年)、土地・租税制度改革である地租改正(ちそかいせい)によって、中腹以下の山々であった百姓稼山は公有地となり、入山が禁止されました。
1875年(明治8年)以降には、これらの山林は遠山の5つの村(連合村)の共有林となります。
急速な近代化に伴って木材需要が高まる一方、山林資源の価値や開発の影響について十分に理解していなかった遠山の人々は、共有林の開発を政治家や資本家へ委ねることとなりました。
1895年(明治28年)までの伐採権の対象は17種類の材木に限られていましたが、その権利を巡り、山林業者の間では争いが起こっていました。
伐採業に携わる遠山の人々は、伐採作業の日当として13銭(米10kgが80銭、砂糖1kgが14銭、蕎麦1杯が2銭※明治28年当時)を得て、暮らしも豊かになり、各地には飲食店や雑貨商なども見られるようになりました。
しかし、1895年(明治28年)12月、村と50年間の伐採契約を結んでいた伐採権が、実業家・渋沢栄一(しぶさわえいいち)を中心に、輸入に頼っていた洋紙の国産化を目指して設立された王子製紙へ譲渡されると、遠山の姿は大きく変化していきます。
1896年(明治29年)から1922年(大正11年)の操業停止までの26年間余り、製紙原料を確保するため樹種を問わない大規模な伐採が行われ、遠山の山々は次第に荒廃していきました。
一方で、景気の好況と結びついた時期には、全国各地から労働者を含む約1000人が入山したことで、遠山の和田地区は大きな賑わいを見せます。
旅館や料亭、飲食店などが建ち並び、昼夜を問わず多くの人々が行き交う場所となりました。

1926年以降の昭和初期、共有林の良材を伐り尽くしたことで収入が減少し、生活が苦しくなった遠山の人々の間では、山の中腹以上に広がる国有林の利用解放や払い下げを求める運動が始まりました。
第二次世界大戦中の1940年代からは、飛行機や船舶などの軍用資材として国有林の伐採が進められ、それに伴い宮内省の外局であった帝室林野局によって、軍用資材の搬出を主な目的とした遠山森林鉄道の建設が開始されました。
そして、1944年(昭和19年)から運行が始まります。
それまで河川を利用して行われていた木材運搬は、遠山森林鉄道の開通によって大きく変化しました。
大量の木材輸送を可能にしただけでなく、地域住民や登山者の移動手段としても活躍しました。
最盛期には総延長30.5kmの路線網を有し、5社の民間企業が機関車7両、運材台車などの貨車242両、人員輸送車5両を所有していました。
各企業は運材台車単位で帝室林野局(1947年以降は国有林管理機関)へ軌道使用料を支払い、それぞれの機関車で伐採した木材を運搬しました。
戦後復興による木造住宅建設や燃料需要によって木材価格が高騰した1950年代以降、遠山一帯は木材景気に沸き、約1700戸、9000人以上の人々が暮らしていました。
しかし、次第に伐採地が急峻な奥地へ移ったことや、豪雨による軌道被害、林道整備によるトラック輸送の普及などによって採算性が悪化し、1968年(昭和43年)に遠山森林鉄道の廃止が決定されました。
その後もしばらくは民間業者による運行が続けられましたが、1973年(昭和48年)に軌道は完全に撤去され、遠山森林鉄道はその姿を消しました。
戦後、木造住宅や燃料用として全国的に木材需要が高まる一方、国産材不足によって木材価格が上昇しました。
価格安定を目的に、1960年(昭和35年)から段階的に木材輸入が自由化され、1964年(昭和39年)には全面自由化されます。
その結果、輸入木材である外材が急増し、1970年(昭和45年)には国産材自給率は45%まで低下しました。
その後も林業を取り巻く環境は厳しさを増し、2000年(平成12年)には18.2%まで落ち込みます。
しかし、合板原料として杉の利用が進むなど国産材活用の取り組みにより、2017年(平成29年)には36.1%まで回復しました。
林野庁は2025年度には国産材自給率50%以上を目標として掲げています。
1897年(明治30年)、1961年(昭和36年)、1965年(昭和40年)などには、乱伐による森林荒廃が一因と考えられる水害が遠山で発生しました。
現在では伐採跡地に松や杉などの人工林が広がり、かつて遠山の産業を支えた原生の山々の姿を目にすることはほとんどできなくなりました。

「杉の木立にかこまれた 平和の里をになうのは われらのつとめともどもに あすの栄をきずくため きたえはげもう意気高く 木沢 木沢 木沢小学校」(「木沢小学校校歌」より)
2007年(平成19年)9月、巡回中の駐在所の警察官が、捨てられていた2匹の仔猫を見つけました。
しばらくして1匹は亡くなり、もう1匹は旧木沢小学校のすぐ近くの家で飼われることになります。
2年後、飼い主のやむを得ない事情による引っ越しのため、その猫は旧木沢小学校へと移り住むことになりました。
飼い主の名字から一文字を取った「高(たか)」と、周囲にそびえる赤石山脈(南アルプス)の山々を表す「峰(みね)」を合わせ、「高峰(たかね)」と名付けられたキジトラの雌猫は、いつしか校舎内を歩き回る姿から「猫校長」または「たかね校長」と呼ばれるようになります。
そして、廃校となった木沢小学校に再び人を呼び寄せる、かけがえのない存在となりました。
1872年(明治5年)10月1日、木沢村木沢地区の共有舞台を校舎として、児童14名の「修身学校」が発足しました。
1904年(明治37年)には、木沢正八幡神社の舞台向かいに児童69名が通う木沢尋常小学校の校舎が建設されます。
1930年(昭和5年)9月11日、木沢地区一帯を焼く大火によって校舎は焼失しました。
その後、町の復興と並行して新校舎の建設が進められ、1932年(昭和7年)3月、遠山の木材を使用し、焼失を免れた旧校舎の校庭の桜を移植した現在の校舎が完成しました。
林業の隆盛とともに人口が増加し、1945年(昭和20年)には児童数約310名、1960年(昭和35年)に遠山村と木沢村が合併して誕生した南信濃村の南信濃村立木沢小学校には、児童257名が通っていました。
やがて林業が衰退するとともに人口減少が進み、児童数も1970年代後半には100名を下回るようになります。
1990年(平成2年)には児童数26名となり、8名の卒業生を送り出した1991年(平成3年)3月31日、118年の歴史をもって一度閉校となりました。
その後、残った児童は約5km離れた学校へ通うことになり、2000年(平成12年)3月31日、開校以来約127年、約2000人の卒業生を送り出した木沢小学校は廃校となりました。
廃校後は校舎を取り壊し企業誘致に活用する案もありました。
同じ年、遠山森林鉄道の発着点近くにあった旧貯木場へ機関車が移設されたことをきっかけに、地域の歴史を後世へ伝えていこうという気運が高まり、2005年(平成17年)、校舎を残すことが決定しました。

現在の廃校となった木沢小学校は、卒業生を中心に当時の面影を残したまま後世へ引き継がれるよう保存・管理されています。
地域の人々の交流の場や企画展示、「一日体験入学」といったイベント、CM撮影などにも活用され、全国的にも少なくなった歴史ある木造校舎は、遠山にとって大切な観光資源の一つとなっています。
近年では、「たかね校長」が活躍する姿がSNSなどを通じて広まったこともあり、その姿に会うため、各地から多くの観光客が旧木沢小学校を訪れるようになっています。
2011年(平成23年)からの取り組みによって、遠山森林鉄道は往時の姿を取り戻す歩みを進めています。
廃線後に放置されていたり、近隣住宅の屋根の重しとして使われていたレールを回収し、軌道に敷く砂利や枕木についても地元企業から提供を受けました。
その努力が実を結び、2016年(平成28年)からは復元された機関車が全長約350mの周回コースを走るまでになりました。
また、2015年(平成27年)からは年2回、ツーリングで訪れるライダーをもてなす「モトカフェ木沢小学校」が、有志のライダーと地域住民によって企画・開催されています。
校舎前に移動販売式のカフェを出店するこの催しは、1回2日間で300人近いライダーが遠山を訪れるほどのイベントへと成長しています。
人と関わり、山と関わり、その隆盛と衰退を幾百年もの間、幾度となく繰り返してきた遠山の地。
かつて子どもたちの声で満たされていた木沢小学校は、今では過去から受け継いだ遠山の物語を、現代へ伝える新たな役割を担っています。
この地を訪れる人々が木沢小学校を通じて遠山に関心を持つことで、ここに続く物語が終わることはありません。
これからも、猫の手を借りながら、遠山に生きる人々が新たな物語を紡ぎ続けていくことでしょう。
写真・文 / ミゾグチ ジュン








