
「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」(蒲生氏郷)
自然石をそのまま積み上げた『野面積み』の美しい石垣に囲まれ、往時の建物は失われながらも広々とした空間が残る『松坂城跡』。
城内の木漏れ日の下、石垣に沿って歩いてみると、眼下にはかつて栄えた城下町の景色が広がります。

1588年、『蒲生氏郷(がもううじさと)』によって四五百森(よいほのもり)に築かれた『松坂城』は、豊臣秀吉の居城『大坂城』の“坂”と、吉祥の木とされる“松”にちなみ名付けられた平山城です。
蒲生氏郷は、織田信長を義父に持ち、洗礼名を『レオ(レオン)』とするキリシタン大名でした。
浅井・朝倉氏との戦いや長篠の戦いなど信長の主要な合戦に参加し、本能寺の変の際には安土城の織田家一族を自らの居城である近江日野城へ迎え保護しました。
清州会議後は信長の後継者として台頭した豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いなどの功績により伊勢松ヶ島へ転封されます。
その後、九州征伐の功を経て松坂城を築き、城下町の整備に取り組みました。
信長から学んだ『楽市・楽座』の思想を取り入れ、近江の日野商人や伊勢大湊の商人を招いたことで松坂の町は発展し、江戸時代には三井・小津・長谷川など多くの豪商を輩出する商人の町となりました。
1590年、小田原征伐後には会津へ転封となった蒲生氏郷は、蒲生家の家紋『対い鶴』にちなむ『鶴ヶ城』を築き、松坂の“松”に由来する『若松』の地名を残しました。
また、キリスト教の布教や商業を重視した町づくりにも力を注ぎます。
しかし、朝鮮出兵の際に体調を崩し、1595年、京・伏見にて天下への大望を抱いたまま40歳の若さでこの世を去りました。
その後、1619年に松坂は紀州藩領となります。
松坂城には城代と少数の武士が置かれるのみで、藩による厳しい統制が少なかったことから、商人たちは自由に活動し、伊勢神宮への参宮者で賑わう商業と宿場の町として発展していきました。
1644年、天守は大風によって倒壊し再建されることはありませんでした。
現在、その姿を直接見ることはできませんが、安土城を参考にしたとされる天守や、安土城を上回る堅固さと美しさを評価された石垣が残る『松坂城跡』では、広々とした空地に往時の建物を想像する楽しみがあります。

「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」(本居宣長)
日本最古の歴史書『古事記』は、712年に編纂され、神々の物語から推古天皇の時代までの天皇家の神話を記しています。
松坂に生まれた『本居宣長』は、愛読した『源氏物語』を儒仏の倫理観から離れ、物語そのものの価値を読み解き、67歳の時に注釈書『源氏物語玉の小櫛』を著して「もののあはれ」を提唱しました。
宣長が説いた「もののあはれ」とは、自然や出来事に触れた時、心深く感じる情のことであり、人が物事に心を動かされる感性の大切さを表したものです。
「恋せずは 人は心も なからまし 物の哀れも これよりぞしる」(藤原俊成)
平安時代の歌人・藤原俊成が詠んだ「物の哀れ」の心は、本居宣長にとって「日本人とは何か」を生涯かけて探求する出発点となりました。
その答えを求めるため、江戸時代中期にはすでに読める者がいなくなっていた、万葉仮名と変体漢文で記された『古事記』に向き合い、35年の歳月をかけ69歳で注釈書『古事記伝』全44巻を完成させました。
それは、失われかけていた日本の祖先の声を現代へ蘇らせる大きな業績となりました。
日本人だからこそ感じ得る「もののあはれ」。
その心を胸に松坂城跡や松阪の町を歩くと、広がる空地や壮麗な石垣、町を流れる川の景色の中にも、そこに生きた人々の営みや想いが幾重にも重なり、古来より受け継がれてきた「もののあはれ」を感じ取ることができる気がします。
写真・文 / ミゾグチ ジュン




