
「苔むせる 岩ねに松は 大河原 かはらさりけり 庭のすさきに」(一条兼良「ふち河の記」)
京都府の東南端、山々に囲まれた地を木津川が東西に流れ、茶畑が広がる自然豊かな山村である『南山城村(みなみやましろむら)』。
面積の約72%を山林が占める南山城村は、奈良県・滋賀県・三重県との県境に接する京都府唯一の村で、1955年(昭和30年)に高山村と大河原村とが合併して誕生します。
村名は、合併前の二村がともにかつての山城国の最南端に位置し、山城茶の生産地として全国的に知られていたことに由来しています。
内陸性の気候で、年間降水量が少なく、夏と冬の気温差が大きいほか、村内の南北で標高が異なるため、地域によって気候にも違いがあります。
南山城村は宇治茶の代表的な産地の一つとしても知られ、原木しいたけやトマト、ブルーベリーなども盛んに栽培されています。
「大河原といふ所は伊賀と山城とのさかひなり 河原の木石さなから前栽なとをみることくなれは」(一条兼良「ふち河の記」)
平安時代中期に編纂された『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』によれば、南山城村一帯は、当時「山城国相楽郡大川原郷(さがらかのこおりおおかわらのさと)」と呼ばれ、東大寺や興福寺など大和国の諸寺院に木材を供給するための杣山(そまやま)だったという。
1467年(応仁元年)に勃発し、11年間続いた応仁の乱では、京都の町が大きな被害を受け、都を一時的に離れる公家も多かった。
その一人が、邸宅を焼失し、奈良の興福寺に身を寄せていた一条兼良(いちじょうかねら, 1402-1481)だった。
1473年(文明5年)、美濃国への旅に出た一条兼良は、その道中を『ふち河の記』(藤河の記)に記し、伊賀国から大河原へ通じる街道を進む途中で目にした河原の木や石に、庭園のような趣を見いだしている。
江戸時代になると、この一帯は柳生藩の管轄となった。
木津川やその支流である名張川の水運によって伊賀地方の木材や物資が運ばれ、街道を通じて近江国の信楽焼なども大河原に集まり、街道筋には大河原宿が形成されて家々が立ち並ぶようになった。
明治維新後の1871年(明治4年)には、いったん柳生県の管轄となった後、同年中に京都府の管轄へと移った。
その後、1889年(明治22年)の町村制施行により高山村と大河原村が発足し、現在の南山城村へとつながっていく。
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「南山城の相楽郡といえばほとんど山ばかりの村である。」(近松秋江「狂乱」)
南山城村の西部、大河原駅に降り立つと、道路を挟んですぐ先に木津川が流れている。
駅から少し西へ向かうと、朝日を浴びて穏やかに流れる川に、欄干のない潜没橋(沈下橋)が架かっているのが目に入ってくる。
橋の傍らには「恋路橋」と刻まれた石が置かれており、その名と風景を重ねると、なんとも情緒豊かである。
白い車が一台、橋の向こうから渡ってくるので、いったん橋の脇に避けて通り過ぎるのを待つ。
慣れた様子で細い橋を迷いなく渡ってきた車は、そのまま脇を通り過ぎていく。
今は誰もいない橋に足を踏み出し、向こう岸へと歩いてみる。
しかし、欄干がないというだけで、こうも開放感を覚えるものだろうか。
木津川の川面を歩いているようで、踏み外しそうなかすかな恐怖さえも、この上ない自由を感じさせる。
渡りきる頃、橋の先の坂道を下ってくる制服姿の男子学生とすれ違う。
軽く朝の挨拶を互いに交わし、駅へ向かって橋を渡っていく学生の後ろ姿を、朝の光が優しく照らしている。
橋を後にして坂道を上り、集落を抜けた先の古い街道沿いに戀志谷神社(こいしだにじんじゃ, 恋志谷神社)が鎮座している。
鎌倉時代末期、伊勢で持病の療養をしていた後醍醐天皇の寵姫(側女)は、戦に敗れた天皇のもとへ駆けつけたものの、すでに天皇は去っており、悲しみのあまり病が再発して自ら命を絶ったと伝えられる。
村人たちは、その悲劇を哀れに思い、姫を恋志谷姫と呼んで祠を建て、祭神として祀った。
天皇を想いながら命を絶った姫は、自らの病を嘆くとともに、後の世の人々の病気や苦難をわが身に受けると伝えたという。
古い街道を抜け、再び木津川にたどり着くと、川の対岸には1919年(大正8年)に運転を開始したレンガ造りの大河原発電所が見えてくる。
今も稼働を続けるその姿は、長い年月を重ね、いつしかこの風景に欠かせない存在となっているようだ。
ここから、木津川を左手に見ながら、ゆっくりと上流へ向かう。

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「木津川も先きの大河原駅あたりから、ここまで下って来ると、汪洋とした趣を備えて、川幅が広くなっている。」(近松秋江「狂乱」)
川沿いに密に生える木々の隙間や、その途切れた場所から、正面から後方へと流れていく木津川の川面が見える。
水量が少ないのか、ごつごつとした岩が川底に姿を現しており、その間を縫うように流れる水には白波が立っている。
しばらく進むと、右手に雌滝、もう少し先に雄滝が現れる。
どちらも小さな滝だが、雄滝の方がわずかに大きいようだ。
木津川へ注ぐ二つの滝は、今は岩を伝って細々と落ちているが、雨の日には一変して、激しい流れとなるのではないだろうか。
二つの滝のすぐ先、河原には明神の滝があるという。
しかし、いったいどこに滝があるのだろうか。
戸惑いながら横の説明板を読むと、よく知る落差のある滝ではなく、川幅が狭まり、白波が激しく立つ急流を指す名だという。
以前は白滝明神とも呼ばれていたらしい。
ならば、さきほどの雌滝と雄滝も、滝そのものではなく、その先に続く川の急流を指しているのだろうか。
今は川の水位が低く、明神の滝にかつて恐れられた急流の面影はない。
水運が盛んだった時代、この急流に差し掛かった船頭たちは、どのような思いで白波を見つめていたのだろう。
そこは、滝を下るかのような覚悟を要する場所だったのかもしれない。
その先には、大河原発電所へ水を引き入れるための石積みの堰堤、大河原取水堰がある。
川幅いっぱいに広がり、白波を立たせるその姿は、つくられた景観ではあるが、いわば現代の明神の滝といえよう。
「弓ヶ淵は往古は伊賀にあらはなり いつの時かは混乱けん 山城国大河原領尓にまがひたり」(菊岡如幻「茅栗草子」)
川が弓なりに曲がる場所があり、そこは弓ヶ淵と呼ばれている。
古くは、弓ヶ淵を「深淵」と称していた。
1682年(天和2年)に菊岡如幻(1625-1703)が記した『茅栗草子(しばくりそうし)』によれば、この地に住んでいた大和守菅道忌(すがのみちおみ)は、伊賀国の大領を務める人物の娘を奪い、匿った。
その後、娘は童子を産んだが、このことが明らかとなり、大領の手の者が討ち手として差し向けられた。
戦いに敗れた道忌は弓を引っ提げ、崖上から深淵へ飛び込んで自害し、妻女も続いて身を投げ、以後、亡霊となって伊賀国の観菩提寺に参詣したという。
この物語が弓ヶ淵の地名の由来とされることもある。
一説には、観菩提寺への信仰と結びつけ、かつて弓ヶ淵が伊賀国に属していたことを忘れないよう、語り継がれた物語だという。
また、剣豪として名を馳せた柳生三厳(十兵衛, 1607-1650)が、鷹狩りの最中に急死した地としても知られている。
大河原取水堰の完成によって、弓ヶ淵の景観は様変わりし、明神の滝の急流も含め、今では往時の姿を目にすることはできない。
さらに上流へ向かうと、奈良県から流れる川と三重県から流れる川が合流する峡谷、夢絃峡(むげんきょう)がある。
ここには、悲しい恋の物語が伝わる。
平安時代、大和国司の絃之丞と名張郡司の娘・夢姫は、許されない恋に悩み、永遠の愛を誓ってこの谷に身を投げた。
昭和初期に二人の名にちなんで、この峡谷を夢絃峡と呼ぶようになったという。
川辺からは、景勝とうたわれた夢絃峡を望むように建つ温泉旅館が見える。
多くの人々で賑わった時代もあったのだろうが、今では人の気配もなく、廃屋となって久しいようだ。
ここまでの道のりで出会った木津川の風景は、悲哀を秘めた伝承とともに、時の流れの中で姿を変えてきた土地の歩みを静かに語りかけている。
ここからは、木津川の支流である名張川を上っていくと、左手に1969年(昭和44年)に造られた高山ダムが見えてくる。
灰色のダムを越えて、さらに上流へ向かうと、緑の山々に囲まれた川に架かる赤い吊り橋にたどり着く。
橋を眺めていると、渡った先には何があるのだろうかと、ふとした好奇心が湧き、対岸へと足を向けてみる。

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「この村には、何か魅力がある」
赤い橋を渡った先、緑に囲まれた道をしばらく行くと、視界が急に開けて集落が見えてくる。
ずっと川沿いを進んできたからだろうか、青い空の下を涼しい風が吹き抜け、人が暮らす気配を感じ、爽快な気分になる。
集落を南北に通る道に沿って、家々が立ち並んでいる。
その坂を下った先の、ふと立ち寄った場所で、南山城村に移住してきた人たちに出会う。
話を聞くと、少子高齢化による人口の減少が進み、村内では空き家が目立つようになっているという。
こうした状況を受け、村では移住の促進と空き家の活用に力を入れているそうだ。
村に移住してきた人には、農業をする人、創作活動をする人、田舎暮らしをしたい人など、いろいろな人がいるという。
この村に惹かれた理由もさまざまだ。
豊かな自然に魅せられた人、知人に誘われて訪れたことをきっかけに気に入った人、一軒家を探す中で、ちょうどよい住まいをここで見つけた人もいる。
中には、今となってはこの村でなくてもよかったと思いながらも、ここで出会った人たちとのかけがえのないつながりから、暮らし続けている人もいる。
移住者と村の人たちとの交流も盛んで、村の人たちは生活の知恵と経験が豊富だという。
高齢化によって途絶えつつあった冬のこんにゃく作りを教わるなど、村で受け継がれてきた知識や経験が、移住者へと伝えられていくこともある。
村の人たちは、優しいという。
なぜ、そんなに優しいのかと移住してきた人が村の人に尋ねると、「落ちるところまで落ちたからじゃないか」と返ってきた。
過疎が進み、若者が減り、人との交流も少なくなる中で、どん底を経験したことが、その理由ではないかという。
実際のところ、村が奈良県・滋賀県・三重県に隣接し、古くから文化や人の交流があったことが、外から来た人を受け入れる柔軟さにつながり、もともと誰に対しても隔たりなく優しかったのではないかと、移住してきた人は考えているようだ。
この村には、人を引きつける魅力が何かあるらしい。
その何かは、人によって違うのだろう。
ただ、生きる豊かさを見いだし、自分の居場所を見つけた人の笑顔は、なんて輝いて見えるのだろう。
村の見どころを尋ねると、茶畑が広がる集落があることを教えてもらう。
ただし、赤い吊り橋まで戻らなければならない。
来た道を戻り坂を上がると、緩やかに曲がる道に、木々を背にした鳥居と神社が見える。
この通りの家並みには、坂道がよく似合う。

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「栂山の 尾上の茶の木 分け植ゑて あとぞ生ふべし 駒の足影」(明恵上人)
再び、赤い吊り橋を渡り、名張川の上流へと曲がりくねった川沿いの道を進む。
茶畑のある場所まで来たものの、川沿いの道からは茶畑が見えず、山へと向かう細くて少し急な坂を上っていく。
ようやく上りきると、山の斜面一面に広がる横畝や縦畝の茶畑に、目を奪われる。
宇治茶の起源は、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖・栄西(えいさい, 1141-1215)から茶種をもらい受けた明恵(みょうえ, 1173-1232)が、京都の栂尾(栂山)で育て、宇治に伝えたことにあるとされる。
また、宇治茶とは、京都府・奈良県・滋賀県・三重県の4府県で生産された茶葉を、京都府内業者が京都府内において宇治地域に由来する製法により仕上加工した緑茶をいう、とある。
南山城村では各地区に茶畑が広がり、茶(荒茶)の生産量は京都府内の約4分の1を占め、府内第2位となっている。
ここは、南山城村の高尾・荒堀に広がる茶畑。
秋の柔らかな日差しが一面の茶畑に降り注いでいる。
新茶の頃の若葉も、季節を経て成熟し、肉厚な葉へと変わっているようだ。
もうすぐ秋番茶の収穫が始まるのだろうか、日に照らされた葉には、まだまだ豊かな生命力が宿っている。
茶畑に囲まれた細い道は迷路のようで、その迷路の中に家が埋まっている。
家の日当たりよりも茶畑の日当たりを優先した結果なのだろうか。
各家は独立して山裾にあり、茶畑から眺めると屋根しか見えない。
なんとも不思議な光景だ。
道沿いの葉にちょっと鼻を近づけてみるが、ただの葉っぱの匂いだ。
これがお茶になったら、どのような香りがするのだろうか。
今すぐにでも茶葉にして、この茶畑の景色を眺めながら一服したい。
この景色を求めて、ここまで来てしまった。
茶畑に立つ防霜ファンの影が伸びているのを見て、日が傾き始めているのを感じる。
そろそろ帰る頃合いだ。

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「その大河原というのは関西線の木津川の渓流に臨んだ、山間の一駅で、その辺の山水は私のつとに最も好んでいるところで、自分の愛する女の先祖の地が、あんな景色の好いところであるかと思うと、一層その辺の風景が懐かしい物に思われていたのであった。」(近松秋江「狂乱」)
今度は、名張川、そして木津川を、下流へと下っていく。
下流の大河原発電所に着く頃には、西日が目に入るようになっている。
舟に乗って川を下れば、あっという間だっただろうに。
大河原宿があった古い街道を歩いてみる。
しかしながら、道筋が残るのみで、当時の面影を感じるのは難しいようだ。
金属の擦れる甲高い音が響き、集落を横切る関西本線の鉄橋を、大河原駅を出た電車が走っていく。
1897年(明治30年)に関西鉄道が村内を通ったことも、かつての賑わいが失われた一因だったのだろうか。
鉄道網が整備されるにつれて、木津川の水運は徐々に衰退していったという。
大河原宿が栄えた街道にも、その影響が及んだことは想像に難くない。
止めることのできない時の流れの寂しさを、日の傾きとともに感じる。
今日の終わりとなり、始まりとなった恋路橋が見えてくる。
夕日に照らされ、朝と変わらない姿で木津川に架かっている。
恋路橋というのは愛称で、正式には大河原橋というそうだ。
そうと知っても、今は愛称のほうがしっくりくる。
多くの人にとってまだ帰宅の時間には早い、きっと朝に会ったあの学生もそうだろう。
この橋に立ち、夕日が沈みゆくその時まで、この情景は自分だけのものだ。
写真・文 / ミゾグチ ジュン

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