
愛媛県・愛南町へ
「時鳥川上へ啼移る朝乃窓あけて居る」(河東碧梧桐)
愛媛県南部、リアス式海岸が広がる宇和海に面した西海半島北西部に位置し、ひな壇状に石垣を積み上げた集落が広がることから、「石垣の里」とも呼ばれる『外泊(そとどまり)』。
外泊は、幕末から明治12年頃にかけてイワシやカツオ漁で栄えた漁村集落で、東側に隣接する中泊地区の人口増加を受け、次男以下の分家対策として移住した人々によって開かれました。
入り江から急斜面の中腹まで約50軒の家々が建ち並び、軒先まで高く積み上げられた石垣が、台風や潮害、冬の北西季節風から人々の暮らしを守っています。
100年以上前に積み上げられ、長い歳月にわたり海からの厳しい風雨に耐えてきた石垣。
緩やかな潮風を感じながら、ごつごつとした石にときおり手を触れ、坂道や石段を上り下りして集落を歩くと、至る所に築かれた石垣の高さと広がりに驚かされます。
この地へ移り住んだ人々が、厳しい自然の中で新たな暮らしを築くため、一つひとつ石を運び、崩れぬよう丹念に積み重ねてきたからこそ、100年を経た今も外泊の暮らしは受け継がれています。
日差しを浴びて温もりを帯びた石垣からほのかに漂う潮の香りに包まれていると、その積み重ねられた歴史の重みを深く感じずにはいられません。



§

愛媛県・宇和島市へ
「夕山ニ 鳴きのこりたる 鳥の声 一つひゞきて 静なるか母」(中井コッフ)
標高約80mの独立丘陵に、1601年、宇和郡7万石の領主となった藤堂高虎によって築かれ、その後、伊達宗利による城郭全体の改修と1666年の天守再建を経て、江戸時代から現存する12基の天守の一つを有する『宇和島城』。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と発したと伝えられ、「関ヶ原の合戦」(1600年)後に徳川氏へ臣従した外様大名でありながら、最終的に津藩32万3000石の大名へと昇り詰めた藤堂高虎(1556-1630)。
高虎は1595年に宇和郡を拝領すると、翌1601年までの間に、戦国時代には「板島丸串城」と呼ばれていた城を大改修しました。
天守や櫓、石垣、堀などを備え、五角形の縄張りを四角形に見せる巧みな設計を取り入れた近世城郭・宇和島城へと生まれ変わらせました。
1615年には、仙台藩主・伊達政宗の庶長子(正室以外の女性との間に生まれた長男)である伊達秀宗が、宇和郡10万石を拝領し宇和島城へ入城します。
ここに、明治維新まで9代にわたって続く宇和島伊達家の歴史が始まりました。
2代藩主・伊達宗利は、1662年から宇和島城の天守をはじめとする城郭全体の改修に着手し、1666年頃には望楼型から層塔型へ改められた現在の天守が完成しました。
1671年には一連の改修が完了します。
明治維新後、天守と追手門を除く櫓や城門などは解体され、堀も宇和島港の整備に伴い埋め立てられました。
1934年(昭和9年)には、天守と追手門が当時の国宝に指定されました。
しかし、追手門は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月12日、B29による宇和島空襲によって焼失しました。
「天守閣と城山だけが凝然として青い空をささえていて、その孤独さは悲痛なほどである。」(司馬遼太郎 著「南伊予・西土佐の道」より)
宇和島城の北登口にある、1952年(昭和27年)に移築された桑折(こおり)氏武家長屋門をくぐり、城内へと足を踏み入れます。
今となっては、幾百年もの時を重ねてきたであろう木々や草花が、朽ちかけた石段や石垣を覆うように生い茂り、陽の光を遮るほどの静かな空間をつくり出しています。
長い石段を登っていくと、やがて視界が開け、淡い光を浴びながら佇む白い天守が姿を現します。
創建当時の姿、明治の廃城まで残されていた景観、そして戦前に山上から望めた風景は、もうここにはありません。
しかし、1666年から変わらぬ姿を伝える現存天守が今も残されています。
その天守を背に、かつて広がっていた城下や周囲の景色を想像しながら歩けば、まるで同じ場所に立った宇和島城の武士の一人となり、遠い時代へ思いを馳せることができるかもしれません。


§

愛媛県・内子町へ
「凧を空に草むしりをる静心」(種田山頭火)
松山と大洲(おおず)を結び四国遍路道でもある「大洲街道」が通り、江戸から明治にかけて木蝋や和紙の生産などで繁栄を極めた在郷町である『内子(うちこ)』、そして1916年(大正5年)に大正天皇の即位を祝して地元の有志によって創建された芝居小屋である『内子座』。
江戸時代から行われ、明治期に内子の発展を大きく支えたものが、ウルシ科のハゼノキ(櫨の木)の果実から採取される油脂を原料とした木蝋(もくろう)です。
1736年から木蝋生産を始めた芳我一族の本家「本芳我」の芳我弥三右衛門(はがやざえもん)は、蝋を日光にさらして漂白する「蝋晒し」において、新たな技法「伊予式蝋花箱晒法」を開発しました。
これにより作業の効率化が進み、均一で良質な晒蝋(さらしろう:白蝋)の生産が可能となりました。
明治末から大正初期にかけては23軒もの製蝋業者が存在し、町の至る所に蝋を晒す蝋晒場があったといわれています。
木蝋は、蝋燭をはじめ、織物や木工品のつや出し、口紅、石けん、色鉛筆、軟膏などの医薬品、食品など幅広い用途に使われ、その原料となる白蝋は「本芳我」によって明治期には「旭鶴」の商標で海外へも輸出されました。
こうした木蝋産業によって繁栄した内子では、1916年(大正5年)、大正天皇の即位を祝して、地元有志によって芝居小屋「内子座」が創建されました。
木造2階建て、瓦葺き入母屋造りの純和風建築で、収容人数650名を誇った内子座の杮落としは、淡路を拠点に活動していた吉田伝次郎座による人形浄瑠璃でした。
内子座へ訪れる興行は、娯楽の少なかった当時の人々にとって大きな楽しみの一つであり、弁当や酒、肴を持ち寄るなど、町は大いに賑わったといわれています。
*
大正から昭和へ時代が移るにつれ、石油から作られる安価な西洋蝋(パラフィン)や灯油ランプ、電灯の普及によって木蝋の需要は激減し、内子を支えてきた産業は次第に衰退していきました。
内子座もまた、娯楽文化の多様化によって1950年(昭和25年)には枡席を撤去し、椅子席の映画館へと改装されました。
その後、老朽化により取り壊しの危機に直面しますが、1982年(昭和57年)に有形文化財へ指定されたことを契機に保存への機運が高まり、1985年(昭和60年)には創建当時の姿へ復元されました。
そして2015年(平成27年)には国の重要文化財に指定されています。
約600m続く通りには、繁栄した時代の面影を残す90軒余りの伝統的な町家が建ち並び、1982年(昭和57年)には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
1894年(明治27年)に棟上げされた上芳我家の邸宅は、広大な敷地に主屋や炊事場、中庭を囲む建物が配置され、釜場や蝋絞り小屋、土蔵など木蝋生産の施設も現存しています。
1994年(平成6年)には敷地内に木蝋資料館が整備され、当時の生産工程を知ることができます。
町並みのほど近くに建つ内子座は、現在も文楽や歌舞伎、公演、映画祭など、町内外の芸術活動の場として活用されています。公演のない日には、花道を歩き、舞台に立ち、地下の奈落を見学することもできます。
かつて内子の繁栄を支えた木蝋は、現在も和蝋燭の原料として受け継がれています。
石油由来のパラフィンを使う洋ローソクとは異なり、ハゼノキから作られる木蝋を用いた和蝋燭は煤が少なく、火を灯す燈芯にはイグサの髄を利用した太い芯が使われるため、大きく揺らめく独特の炎を生み出します。
日が沈み、夜の静けさが訪れる。
燈芯に火を灯した和蝋燭の炎が、ときおり大きく揺らぐ姿を眺めていると、100年前の内子の人々も同じように灯火を見つめ、心を動かされたのではないかと思えてきます。
その揺らめきの中に、時を超えて受け継がれる人々の想いを感じることができるのかもしれません。




§

「伊予の国うわの郡のうをまでも我こそはなれ世を救ふとて」(「玉葉和歌集」より)
宇和島市を中心とする南予地方では、鯛の刺身を特製のタレに漬け、生卵やゴマ、刻みねぎなどの薬味とともにご飯にのせたものを「鯛めし」と呼びます。
一方、それ以外の地域では、焼いた一匹の鯛を土鍋のご飯の上にのせて炊き込むものを「鯛めし」と呼ぶのが一般的です。
古くから南予地方の西側に広がる宇和海沿岸は、農耕に適した土地が少なく、漁業を中心とした暮らしが営まれてきました。
太平洋から黒潮が流れ込む宇和海は栄養豊かな海域で、脂ののった美味しい魚が多く水揚げされます。
南予地方の鯛めしは、宇和海を拠点とした伊予水軍が船上で食したことが始まりと伝えられています。
船では火を使うことが難しかったため、獲れた新鮮な鯛を刺身のまま味わう現在の形へと受け継がれたといわれています。
写真・文 / ミゾグチ ジュン


